都内社会人の一人暮らし

一人暮らし社会人の生活。生きていて思ったことを書いています

結局サブカル好き

今年1年は音楽、お笑い、ラジオで構成されていたと思う。映画、本、漫画もたまに見たりもした。

見たいの多すぎて困っている。全部知りたい。世の中にある素晴らしい作品、面白いもの全部知りたい。到底無理だとわかっているけど、人生かけてできるだけ味わいたい。好きなものたくさん知りたい食べたい。

 

飽き性で、好きなものがコロコロ変わるから絶対、今大好きなものは、1ヶ月後には別のものが大好きになっているし、10年後は何してるか全然想像つかない。

だからこそ今見たい!っていうものは全部見たい

 

 

あーあ

14:55の電車が早く行ったから

授業サボることにした。

走ったけど、後3秒ってところで間に合わなかった。先々週もこうだった。

14:55の車掌さん、まだ55分なのにどうして発車しちゃうのかな

もういやだから授業サボることにした。先々週、走っても授業に間に合わなかったし、もう走りたくないと思った

 

イライラしてしまう。ホームのイスで電車待っていたけど、もういいやと思って立ち上がった。登りエスカレーターに行く途中、サラリーマンやOLに見られた気がした。気のせいだと思うけど。

仕事行くのやめたのかな?と思われたのかな?わからん

 

帰りにセブンでおにぎりとアメリカンドッグ買った。やけ食い

午前中に、健康意識してアメリカンドッグよりアボカド食べようと思って、スーパーでアボカド買ってきて食べたのに。結局買った。

自分にイライラいらいら

 

 

大学4年生

卒論を書いていると、なんでこんなことやっているんだろう、なんのためにやっているんだろうと思う。

だけど、ただ卒業したいという強い意志があるからやっているのだ。だから卒論をなんとか着地させ完成させなくてはならないのだ。そのためにやっているのだ。最初はあった興味もやり始めたらすぐになくなってしまった。(この現象はなんだろう。)

でもせっかくやるなら本気でやりたいという思いもある。しかし、そんなこと言ったら時間はないし、興味もない。早く終わらせたい。なんとしても終わらせる。

 

卒業したいというのは、就活が大変だったからこそ、納得して終了したからこそ何としても卒業したい思っているのである。それがなかったら、学生生活もう少しやっていたかったと思ったかもしれない。

だけど卒業するつもりだから、学生生活は、残りの3ヶ月を存分に満喫する予定。今のところ演劇やライブ、映画をたくさん見たい、本をたくさん読みたい、旅行したいと思っている。わかるように一人でやりたいことが多い。友達はそんなにいない。でも数人いる友達ともたくさん遊びたいと思う。

気を使っちゃうよ

「気を遣わないで」と言われた。この言葉がしばらく引っかかっていた。私は多分この言葉で傷を受けていた。

 

居酒屋でメニューを決める時、本当にどれでもいいと思っている。なんとなく良さそうな焼き鳥、きゅうりとかを頼んでみる。相手が頼むものも、なんでもいいと思うから「いいね」と言う。

遊ぶ場所を決めるとき、特に行きたい場所がなかった。いや、実は一人で行きたい場所ならあった。美術館とか。でもこの人と美術館行ったら、好きなように見れないなとか多分心の中で思っていた。この人と行きたい場所、お笑いライブが浮かんだ。でもなんか恥ずいなと思ってしまった。それでうーんと悩み、プラネタリウム?水族館?というなんでもない場所が候補に上がった。私は、どこでもいい。なんでもよかった。自分が何がしたいのか、何が楽しいのかわからなかった。「いいね」と言った。

「気使わないで、嫌だったら全然言ってほしい」と言われた。
気を遣っていると思われているのだと、申し訳なくなった。そして言われてた時には、気を遣っているつもりは全くなかった。でも実際に思い返すと、気を遣っていたみたいだ。

「気を遣わないでいいよ」と言われたとき、この人とは分かり合えないのだと思ってしまった。

だけど、実際気を遣っていた。嫌いじゃないと思っていたけど、気を許していなかった。自分の気持ちを素直に言えない私が悪いのだと思った。

今後はもう少し自分の気持ちに素直に我儘になろうと思う。

唐揚げがなかった

友人と学食を食べに大学の食堂へ行った。もう14時をすぎていたから、食券機のメニューにはほとんど赤いバツがついていて、ポテトや唐揚げなどの軽食が残っていた。私はポテト、友人はポテトと唐揚げ(3個)を買った。

食券を持っていくと、ポテトはあったが、どうやら唐揚げがないらしかった。おばさんたちは、「あれ、唐揚げないよね、あるかな?」などと言ったりしている。「あれ、やっぱりないよね」裏から来たおばさんは「5分くらいあればできるかも」と言っていた。だから私は、時間ならあるし、今から作ってくれるのかなと思っていた。

だが、食券を受け取ったおばさんは「シュウマイならあるけどこれでもいいかな〜?カツもあるよ〜あっ味噌汁も」と友人に言った。

私は、頭にはてなが浮かんでいた。唐揚げが食べたくて、食券を買ったのに、どうして残り物のシュウマイやになるのだろう。

さすがに返金はしてくれるのかと思ったが、結局してくれなかった。

彼女は、唐揚げが食べたいんですよと、言おうか一瞬迷ったが、きっとそうまでして食べたいということではない。

全然いいですよ。と、すぐに言った友人が大人に思えた。私はすぐにそんなことは言えなかったと思う。

お姉さんたち太らせちゃうね」と言いながら、友人の唐揚げ3個は、二人前のカツ、味噌汁二つ、シュウマイ三つに変わった。

 

おばさんが、一言の謝罪もせず、笑顔でサービスだよみたいなノリで沢山の残り物をくれたことに違和感を覚えた。

唐揚げを食べたいという気持ちは、どうなってしまうのだろうか。

唐揚げを食べさせてあげられなくて、本当にごめんねと謝る必要があったのではないか。

それに、ポテトに味噌汁は組み合わせが最悪だと思う。

 

その笑顔のおばさんの目の奥は笑っていないように感じた。人の気持ちを慮るということは大切なことだと思った。

 

きっと面白い出来事だったと思って日々を過ごしていけばいいのだろう。

おばさんに対してこんなことを思ってしまう私は心が狭いのだろうか。

 

 

文章を投げる(13:17)

みんな何が楽しくて生きているのだろう。

歩くスピードが遅くなる。さっきまで雨が少しだけ降っていて今は空を見ると晴れ間もある。とても眠い。歩きながら目を瞑ったりする。

ここの家は前車庫がなかった気がする。いやいつも閉まっていたのかな。あの作業着のおじさんは車庫で何か作業しようとしているらしい。だけどタバコを吸って立っているだけだ。おじさんは何が楽しくて生きているのだろう。と思う。これは見下しているのではないかとふと思い、見下しているということを察されないように通りすぎる。

みんな何が楽しくて生きているのだろう。今日服を選んだがなんでも良いじゃないか。おじさんは作業着をどういう気持ちで選んだのだろうか。タバコを吸っているときは幸せだろうか。

後ろから人が来ている。私は歩行を早める気力がない。どうぞ追い越してくれ。家に帰ると服が臭い。部屋はどんな匂いがするのか自分ではわからない。でも友達が来たら多分臭いと思うだろう。どうにかしたい。

友達と遊ぶのは楽しい。

仕事をする。何が楽しいのだろう。なぜ生きているのだろう。どうして嫌なことをやらなければいけないのだろうか。暇な時は食べることしか考えていない。朝ごはんを食べ終わったらお菓子を食べていた。お昼は何を食べようと考えていた。近所を開拓したいから空腹でGoogleマップを見る。迷うのは疲れる。1時間も立った。なぜだろう。外に出たが、結局いつもの弁当屋で唐揚げ弁当を買った。

一体何が楽しいのだろう。

この些細日々を幸せと呼ぶのだろう。だが、虚無と向かい合わせだ。要は気持ち次第なのだ。少し嫌だなと思うと、そっちに引き込まれていくのだ。

平成

昭和、平成、令和。

 

に関する感想を述べたい。(2021.10.22現在)

 

正直、平成がものすごく影が薄く感じている。

さらに、平成の方が昭和よりも古い感じがしている。

 

平成の時代は平成を意識することなく生きてきた。そして昭和は古いものだと当たり前に認識していた。

今令和3年。年号が変わったのはつい最近のことみたいだが3年も経ったのか?

「令和」という年号にも慣れ、令和がとても新しいように感じている。

 

昭和は、もともと古くて当たり前だが、平成は新しく古く、なった。

だから、平成が古いものと感じる。

だが、こう書いていると、寂しくなってきた。青春時代を平成で過ごしたからだ。

これがノスタルジーというものか?